「診断」の意味


先日、3年振りの友人に会った。

その友人とは、つかず離れずの10年来のつきあいなのだが、
7年前に ある事件の被害者になり、
私が想像もできないような苦しみの中を通ってきた人である。

彼女が一番苦しかった時期を、私は目の当たりにしていないのだけど、
だからこそ10年前と変わらない態度で、
私とつきあってくれるのかも知れないと思う。

事件のことも、人間関係のことも、
何ら壁をもうけないで話してくれる彼女に
私もここ最近抱えていることを話したくなった。




自分がアスペルガーではないかと思うこと。
診断を受けてみようかと考えていること...。


友  「え?ススが?ススが発達障害...?
     私はススは...ふつうだと思うけどなぁ...。」


“障害”という言葉から、
やはり彼女は 知的障害などと結びつけてしまったかも知れない。

“ふつう”と言われて喜ぶ感性は私には無いが、
彼女はきっと、思いやりからその言葉を使ったのだろう。
意図は分かるが“ありがとう”とも言えないので、
私は曖昧な表情のまま、説明をつづけた。

自閉症と一口に言っても幅があること、
その大きな幅の中で、言語能力の遅滞も、知的障害もない一群に
自分が当てはまるのではないかと考えていること...。


友  「ススは診断を受けたいの?
     そのことにどういう意味があるの?
     障害を認めてもらうことで、ススは救われるの?」


友人の言葉は非難を含んでいるのだろうか?私には分からない。


私  「救われるかどうかは分からないねぇ~。」

友  「障害があるって言ってほしいの?
     そしたら、障害がなかったら逆にショックじゃないの?」

私  「それも分からない。実際に答えを受け取ってみないと
     どう思うかは分からないんだよね。」

友  「じゃあ何のためにススは診断を受けたいの?」

私  「うーん...事実が知りたい。」


ああ、そうか...!分かった分かった。
自分で言ってから納得した。
私が診断を意識しているのは「事実を知りたいから」なのだ。

事実を告げられた時、自分がどのようにそれを受け取るかは
本当にその時にならないと分からない。

“障害あり”ならば私は傷つくのか
それとも“障害なし”と言われたら傷つくのか

それとも?どちらであろうと私は傷つくのかも知れない。
でも逆に、どちらであろうと私は喜ぶのかも知れない。
正直なところ、全く予想ができない。。。と同時に、どんな予想もできる。

しかし“どちらに転ぶか分からない”という不安それ自体は、
私にとってはさして重要じゃない。

病を得てからの私は、自分の力で懸命に自分と向き合ってきた。
それは私なりのやり方でしかなく、不器用で遠回りなのかも知れないけど
今の自分にたどり着いたことに、私は誇りを持っている。

障害があるという前提に立てば、
よく自力でここまで改善できたなぁと思える部分もある。

障害がないという前提に立っても、
それにしてはよくここまで内観できたなぁと思う。

そう...障害があるとしても、それは脳の偏りの問題だから
「個性」で済まされる範囲に、私はいる。
もしハンディキャップがあったとしても、
そのことが私をここまで導いてくれた部分も絶対あるはずだ。

しかし私が気になるのは
自分の力でどうすることもできなかった、過去の私のことなのだ。

せっかく幼少時代の記憶を整理しようという心のゆとりができたところなのに、
私が発達障害であったかどうかによって
親子関係の捉え方が、全く違うものになってしまう。

だから私は、事実が知りたい。
自分に何が起こっていたのかを知るために、
手助けになるものは全て手に入れたい。



しかし...もちろん、医師の診断を受けたとしても、
まだまだ専門家自体が少ない分野だから
医師によって診断の基準は違うだろう。

誰かが“障害あり”と診断しても、
他の誰かは“障害なし”と診断するかも知れない。

また、診断そのものが出来ないかも知れない。
ハッキリとした診断がつけられる時期を、私はとうに超えているし
答えを出す上で頼りになるのは、
私自身の脳の個性と、主観だらけの記憶だけだ。

どんなに丁寧に検査して結果を導き出したとしても、
今、白と黒の“間”にいる私が
グレーゾーンに放り込まれるだけのことかも知れない。

それでも 事実に近づくことができるだけ、今よりはマシだなぁと思うのだ。

それがあくまで、ある一人からの視点であったとしても、
第三者の客観的な意見が聞けることは
私にとっては大いに意味があることなのだ。


ただ、こんなことを言うと矛盾かも知れないけど、
私はきっと、誰が何を言ったとしても
最終的には自分が納得できる答えだけを選ぶんだろうと思う。
他人の意見は、そのための材料にしかすぎない気がする。
どんなに科学的・客観的な事実を与えられたとしても、
つきつめていけばいつも、自分の納得・実感こそが正しいと感じている。
それが私だ(そういう感じ方自体がASっぽいが)。


事実は知りたい。


だけどそれは、その先にある「何か」を追いたいからだ。


きっとそれは、事実すら超えてしまうものなのだ。




連休が明けたら、相談機関に連絡をとろう。
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by susu_canta | 2008-05-04 21:54 | ACと発達障害  

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